「ありがとう」と言われたら…
駅の券売機の前で、お婆ちゃんが困っていました。かわいい孫が待っている長女の家まで行くらしいのです。しかし、お婆ちゃんは目的地までの乗り継ぎ方が分からないのでした。困っているお婆ちゃんを横目に、大勢の人が通りすぎて行きます。
ちょっとだけ勇気を出して「おばあちゃん、どうしたの?」と訊ねました。「孫のいる家まで行きたいんだけど、切符の買い方が分からない…」。
切符を買うお手伝いをしただけのことでした。
お婆ちゃんは何度も何度も「ありがとう、ありがとう」と言ってくれました。

「ありがとう」と言ってくれた、あなたに「ありがとう」
多くの人々が利用する駅の雑踏で出会った「困っているお婆ちゃん」。なんでもない日常生活の中で気づかなかった「他人」との関係。「おばあちゃん、どうしたの?」と声をかけた瞬間から、「他人」ではなく「人」と「人」の関係になりました。
ほんの少しだけ「他人」に対して優しい気持ちになれた時、「人間の本質の中にある他人を喜ばせる喜び」が自分の心の中にもあったことに、とても感動しました。自分の生活圏にはまったく関係のない他人が、自分に「ありがとう」と言ってくれた、それだけで人間は気持ち良くなれるのです。

人に喜んでもらえたら、自分がうれしい
「困っていたお婆ちゃん」は振り返りながらお辞儀をし、かわいい孫の待っている家に向かいました。「うれしそうなお婆ちゃん」を見送り、「うれしい自分」を感じながら、お婆ちゃんに「ありがとう」と何度もお辞儀をしている自分がいました。
プレゼントをもらったり、親切にされたり、自分をうれしくしてくれる、喜ばせてくれること以上に「人に喜んでもらえた」ことは気持ちの良い、とてもうれしいことでした。家族や恋人や友人以外の「人」との関係で、しかもまったくの「他人」との出会いが、この上ない「喜び」を与えてくれました。

うれしい気持ちを大切にするから
駅で出会った「お婆ちゃん」からもらった「うれしい気持ち」は、子供の頃は確かに持っていた「うれしい気持ち」と同じなのです。忘れてしまっただけのことです。人に親切にすると、誰かが褒めてくれたり喜んでくれたり、自分を見守っていてくれる人がいたのです。損得抜きで、困っている人を助けてあげたいと思っていたのです。ところが子供から大人に成長する課程で「利害関係」の存在を感じはじめ、人間としての本質的な喜びさえ忘れてしまいました。子供の頃に持っていた当たり前の「うれしい気持ち」を取り戻せたのは、お婆ちゃんとの出会いでした。
うれしい気持ちをもっと多くの人に
こんな出来事があってから、それまでには感じることのなかった自分と社会との関わりについて考えるようになりました。困っている人、助けて欲しいと思っている人は数多くいるはずです。見て見ぬふりをしているわけではなかったのですが、「他人」との関わりを持つことに怯えていたかも知れません。ほんの少しだけ子供の心に戻って、「どうしました?」と訊ねることができれば、ほんのちょっぴり困っている人の気持ちを思うことができれば、今までのように素通りすることはなくなるでしょう。あの、「うれしい気持ち」にもう一度「遭う」ことができるのなら、このうれしい気持ちをもっと多くの人に伝えたい。